تاريخ مصر

エジプトの歴史

古代エジプト

エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川のデルタ(ナイル川デルタ)に支えられて古代エジプト文明を発展させてきた。以下の古代エジプトの時代区分はマネトの『アイギュプティカ(英語版)(エジプト史)』に従ったものである。エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成し(エジプト初期王朝時代)、ピラミッドや王家の谷、ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。

「エジプトはナイルの賜物」という[[古代ギリシア]]の[[歴史家]][[ヘロドトス]]の言葉で有名なように、エジプトは豊かな[[ナイル川]]の[[三角州|デルタ]]([[ナイル川デルタ]])に支えられて[[古代エジプト|古代エジプト文明]]を発展させてきた。以下の古代エジプトの時代区分は[[マネト]]の『{{仮リンク|アイギュプティカ』に従ったものである。エジプト人は[[紀元前3000年]]頃には早くも中央集権国家を形成し([[エジプト初期王朝時代]])、[[ピラミッド]]や[[王家の谷]]、[[ヒエログリフ]]などを通じて世界的によく知られている高度な[[文明]]を発達させた。

古代エジプト


エジプト原始王朝時代(紀元前3500年 – 紀元前3100年

上エジプトの 後にヒエラコンポリスと呼ばれた。</ref>)を中心とする王朝と、下エジプトの ペル・ウアジェト}}([[エジプト語]]:{{lang|en|Per-Wadjet}})を中心とする王朝にまとまっていた。この時代から上エジプトに住む農民は[[ファッラーヒーン|フェラヒン]]と呼ばれ、後に移住した{{仮リンク|アシュラフ アシュラフ}}や[[アラブ人]]と区別している。

エジプト初期王朝時代(紀元前3100年 – 紀元前2686年)

上エジプトの[[ナルメル]]王が、下エジプトを征服して、上下エジプトを統一。[[エジプト第1王朝]]を開き、下エジプト南部の新首都は『{{lang|en|Ineb Hedj}}(白い壁)』(後に[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]])と呼ばれた。エジプト王は、初期には[[ホルス|ホルス名]]を用いていたが、第二の名前として上エジプトの守護女神[[ネクベト]]([[エジプト語]]:{{lang|en|Nekhbet}})と下エジプトの守護女神[[ウアジェト]]([[エジプト語]]:{{lang|en|Wadjet}})双方の化身であることを示す[[ネブティ名]](二女神名)を加えた。

[[エジプト第2王朝]]の[[セト・ペルイブセン]]の治世に、王名がホルス名からセト名に切り替わり王権守護神が変更されたことを記録している。しかし、2代後の[[カセケムイ]]王からホルス名に戻っている。

エジプト古王国(紀元前2686年 – 紀元前2185年

[[サナクト]]は[[カセケムイ]]王の娘を娶って[[エジプト第3王朝]]を開いた。次の[[ジョセル]]王の治世に、[[イムホテプ]]が設計した[[ジェゼル王のピラミッド]]([[階段ピラミッド]])が建設された。首都[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]には、[[メンフィスとその墓地遺跡]]・[[ギーザ]]・[[ダハシュール]]にこの時代の遺跡が多数残っている。

[[エジプト第4王朝]]の[[スネフェル]]王が[[屈折ピラミッド]]・[[赤いピラミッド]]・{{仮リンク|メイドゥーム・ピラミッド|en|Meidum|label=崩れピラミッド}}を建設し、[[クフ]]王らが[[ギザの大ピラミッド]]を建設した。この時代には[[クフ王の船]]のような大型船の建造が始まっていた。[[クフ]]王の治世に[[プント国]]から黄金がもたらされた記録が残っており、[[:en:Al-Qusayr, Egypt|Quseir]]から[[紅海]]貿易が行なわれていた。

[[エジプト第5王朝]]の{{仮リンク|ウナス|en|Unas}}王のピラミッドに{{仮リンク|ピラミッド・テキスト|en|Pyramid Texts}}<ref>[[エジプト第5王朝]]と[[エジプト第6王朝]]にみられる。後に[[:en:Coffin Texts]]や[[死者の書 (古代エジプト)]]に発展したが、この段階ではファラオにだけ作られ、イラストが描かれなかった。</ref>と呼ばれる[[ヒエログリフ]]による{{仮リンク|古エジプト語|en|Old Egyptian language}}の碑文が残された。この時代には、[[太陽神]]・[[ラー]]信仰が盛んで、その本拠地『[[ヘリオポリス|イウヌ]]([[エジプト語]]:{{lang|en|ỉwnw}}<ref>後に「太陽の町」を意味するヘリオポリスと呼ばれた。</ref>)』の太陽神殿が有名である。

[[エジプト第6王朝]]の初期には王位の簒奪が相次いだが、{{仮リンク|メリラー・ペピ|en|Pepi I Meryre|label=ペピ1世}}(メリラー・ペピ)の治世には宰相{{仮リンク|大ウェニ|en|Weni the Elder|label=ウェニ}}の下でアジア([[パレスチナ]]地方)遠征や[[ヌビア]]遠征を成功させ、[[上エジプト]]に運河を掘削して水上交通網を整備するなど比較的順調に統治した。ペピ2世の治世後半に「上エジプト長官」(ヘリー・テプ・アー)が上エジプトを手中に収め、中央集権体制が解体して州侯が自立勢力として割拠するエジプト第1中間期を迎えた。

エジプト第1中間期(紀元前2185年 – 紀元前2040年)

[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]を中心とする王朝([[エジプト第7王朝]]・[[エジプト第8王朝]])が弱体化すると、{{仮リンク|ヘラクレオポリス・マグナ|en|Herakleopolis Magna|label=ヘウト・ネンネス}}([[エジプト語]]:{{lang|en|Hwt-nen-nesu}}<ref>後のヘラクレオポリスという名は、この都市で祭られていた地方神[[ヘリシェフ]]を[[ギリシア人]]が[[ヘリシェフ|ハルサフェス]]と呼び、名前の類似等から[[ヘラクレス]]と同一視したことによって付けられた[[ギリシア語]]名である。</ref>)を中心とする勢力([[エジプト第9王朝]]・[[エジプト第10王朝]])と、[[テーベ|ワセト]]([[エジプト語]]:{{lang|en|Waset}}、現[[ルクソール]])を中心とする勢力([[エジプト第11王朝]])が南北で対立した。この時代には、[[オシリス]]信仰が盛んで、[[アビドス|アビュドス]]への巡礼が知られている。

エジプト中王国(紀元前2040年 – 紀元前1782年)

[[エジプト第11王朝]]の{{仮リンク|メンチュヘテプ2世|en|Mentuhotep II}}は治世21年([[紀元前21世紀|紀元前2040]])頃、{{仮リンク|ヘラクレオポリス・マグナ|en|Herakleopolis Magna|label=ヘウト・ネンネス}}を陥落させてエジプトを再統一し、[[テーベ|ワセト]]が首都となった。この時、[[エジプト神話]]における[[太陽神]]・[[ラー]]とワセトの守護神・[[アメン]]を習合(一体化)した「アメン・ラー」を神とする宗教が誕生した。[[エジプト第12王朝]]の時代には[[ファイユーム]]の[[干拓]]工事や、[[エジプト古王国]]時代に[[エジプト第6王朝|第6王朝]]の重臣{{仮リンク|大ウェニ|en|Weni the Elder|label=ウェニ}}によって作られた[[運河]]の改修工事を行い、食糧生産の増加や物流が改善された。

エジプト第2中間期(紀元前1782年 – 紀元前1570年)

[[エジプト第15王朝]]・[[エジプト第16王朝]]は[[ヒクソス]]<ref>[[アムル人]]とも云われるが、詳細は良く判っていない。紀元前15世紀末にレバノンに建国された{{仮リンク|アムル王国|en|Amurru kingdom}}もアムル人の国家である。</ref>と呼ばれる異民族による[[下エジプト]]を中心とした王朝である。ヒクソス時代には対外貿易が活発化し、[[クレタ島]]の[[ミノア文明]]の遺物などが見つかっている。ヒクソスはシリアの[[ウガリット神話]]の英雄神・[[バアル]]神と[[セト]]神を習合(一体化)したセト神を信仰していた。

[[テーベ|ワセト]]の[[エジプト第17王朝]]の[[イアフメス1世]]がエジプトを再統一し、以後を[[エジプト第18王朝]]と呼ぶ。

エジプト新王国(紀元前1570年 – 紀元前1070年)

[[エジプト第18王朝]]では[[ハトシェプスト]]女王との共同統治の後、[[トトメス3世]]は[[メギドの戦い (紀元前15世紀)|メギドの戦い]]で[[カナン]]の[[カデシュ]]王と戦い、勝利した。[[アメンホテプ4世]]はトトメス3世の時代に強大となったアメン神官団と対立して、[[ネフェルティティ#アマルナ革命|アマルナ革命]]と呼ばれる[[アテン]]神の宗教によるアメン信仰の排除を推進し、[[アケトアテン]]へ遷都した。この時期に[[ヒッタイト|ヒッタイト帝国]]の[[シュッピルリウマ1世]]は[[歴史的シリア|シリア]]南部に進出し、{{仮リンク|アムル王国|en|Amurru kingdom}}の{{仮リンク|アジル (アムル王国)|en|Aziru|label=アジル}}に宗主権を認めさせた。エジプトは外交([[アマルナ文書]])によって[[ミタンニ]]と同盟し、ヒッタイトの南下に対抗した。[[ツタンカーメン]]の時代には宰相[[アイ (ファラオ)|アイ]]と将軍[[ホルエムヘブ]]が政治的実権を握り、[[下エジプト]]の[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]に遷都した。ホルエムヘブ王の主導でシリア南部は回復された。

『[[旧約聖書]]』「[[出エジプト記]]」の時代は[[エジプト第18王朝]]と考えられている。[[モーゼ]]を育てたのがハトシェプストであるとする説があるが、[[モーゼ]]の[[古代イスラエル#出エジプト|出エジプト]]が[[エジプト第19王朝]]のラムセス2世の時代であれば、時代が離れ過ぎているため諸説ある。いずれにせよ、この集団が後に[[イスラエル王国]]を建国したと考えられている。

[[エジプト第19王朝]]の時代には、[[紀元前1274年]]に[[カデシュの戦い]]で[[ラムセス2世]]が[[ヒッタイト|ヒッタイト帝国]]の[[ムワタリ]]と戦ったが、ヒッタイト帝国の[[パレスチナ]]への南下を許すことになり、戦略的には勝利を収めるに至らなかったと見られている。

[[メルエンプタハ]]の時代になると[[前1200年のカタストロフ]]による動乱期<ref>2度の戦争があり、[[:en:Battle of Djahy|イスラエルの反乱]]は{{仮リンク|メルエンプタハ石碑|en|Merneptah Stele|label=イスラエル石碑}}に、[[海の民]]による[[:en:Battle of the Delta|ペルイレルの戦い]]({{lang|en|Battle of Perire}})は[[カルナック神殿]]の[[:en:Great Karnak Inscription]]に記されている。</ref>に入り、[[紀元前1180年]]に[[ヒッタイト|ヒッタイト帝国]]が滅亡した。

[[エジプト第20王朝]]の末頃、[[テーベ|ワセト]]を中心とするアメン神官団が[[アメン大司祭国家]]を作り、[[上エジプト]]を支配した。

エジプト第3中間期(紀元前1069年 – 紀元前664年)

[[下エジプト]]に首都[[タニス]]を中心とする[[エジプト第21王朝]]が成立すると、[[上エジプト]]の[[アメン大司祭国家]]と協力関係が築かれた。

[[紀元前1021年]]には[[イスラエル王国]]、[[紀元前930年]]には[[ユダ王国]]が建国された。[[紀元前925年]]に{{仮リンク|シェションク1世|en|Sheshonk I}}は[[:en:Sack of Jerusalem (10th century BC)]]でユダ王国を属国にし、次いで[[イスラエル王国]]に侵攻し、[[メギド]]に至と[[ヤロブアム1世]]は[[ギレアド]](現[[ヨルダン]])へ逃亡した。

[[紀元前853年]]の[[カルカルの戦い]]では、[[エジプト第22王朝]]はシリア連合軍([[ダマスカス]]、イスラエル王国、[[ハマー (都市)|ハマテ]])に援軍を派遣し、[[アッシリア]]軍の撃退に成功した。{{仮リンク|シェションク3世|en|Sheshonk III}}の治世に、アメン司祭{{仮リンク|ハルシエセ I|de|Harsiese I.|label=ハルシエセ}}<ref>同時代に同名のアメン大司祭{{仮リンク|ハルシエセ II|de|Harsiese II.|label=ハルシエセ}}がいるが別人である。</ref>のもとテーベ周辺が事実上独立し、[[紀元前818年]]には[[下エジプト]]の{{仮リンク|レオントポリス|en|Leontopolis|label=タレム}}({{lang-en-short|Taremu}})では[[エジプト第23王朝]]が独立した。[[紀元前727年]]に[[下エジプト]]の[[サイス]]で[[エジプト第24王朝]]が独立した。

エジプトの混乱期の[[紀元前747年]]に[[ヌビア]]の{{仮リンク|ヌビア人|en|Nubian people}}{{仮リンク|ピエ<!– リダイレクト先の「フィート」は、[[:en:Foot (unit)]] とリンク –>|en|Piye|label=ピアンキ}}王による[[エジプト第25王朝]]が開かれた。[[紀元前722年]]に強勢となった[[アッシリア]]にイスラエル王国が攻滅ぼされた([[イスラエルの失われた10支族]])。[[紀元前702年]]、[[バビロニア]](バビロン第10王朝)の[[メロダク・バルアダン2世]]が、[[キシュ]]の戦いで[[アッシリア]]の[[センナケリブ]]王に破れ、[[エラム王国]]に逃亡。[[紀元前694年]]に、エラム王国がバビロニアの反乱を支援し、アッシリアの[[アッシュール・ナディン・シュミ]]王子を捕縛し、再びバビロニアを独立させた。しかし、センナケリブ王のアッシリア軍による{{仮リンク|ハルールの戦い|en|Battle of Halule}}でバビロニアが敗北し、エラム王国の干渉は失敗した。[[紀元前681年]]にセンナケリブが暗殺され、アッシリアで王位継承をめぐる内戦が勃発。[[紀元前671年]]、{{仮リンク|タハルカ|en|Taharqa}}王がユダ王国の[[ヒゼキヤ]]王と同盟すると、アッシリアの[[エサルハドン]]王がエジプトに侵攻した([[エジプト遠征]])。敗れたタハルカは[[ヌビア]]へ追われた。

エジプト末期王朝時代(紀元前664年 – 紀元前525年)

[[紀元前664年]]、[[アッシュールバニパル]]の遠征によって第25王朝が滅亡し、アッシリアの庇護の下で[[エジプト第26王朝]]の時代になった。この後、アッシリアは急速に弱体化した。[[メディア王国]]が強勢となり、[[紀元前625年]]に[[新バビロニア]]が建国されると、メディアと新バビロニアは同盟を結んでアッシリアを攻撃し、[[紀元前612年]]にアッシリアが滅亡した。[[紀元前609年]]の[[メギドの戦い (紀元前609年)|メギドの戦い]]でユダ王国([[ヨシヤ]])をエジプトの属国にした。[[紀元前605年]]の{{仮リンク|カルケミシュの戦い|en|Battle of Carchemish}}で[[新バビロニア]]に破れ、旧宗主国アッシリアを支援する[[ネコ2世]]のシリア政策は完全に挫折した。

[[紀元前597年]]、ユダ王国が新バビロニアの[[ネブカドネザル2世]]に敗れた。ユダ王国の[[ゼデキヤ (ユダ王)|ゼデキヤ]]は、[[エジプト第26王朝]]の{{仮リンク|アプリエス|en|Apries}}と結んでバビロニアに対抗しようと試みたが、[[紀元前586年]]にユダ王国が[[新バビロニア]]に敗れ滅亡した([[バビロン捕囚]])。新バビロニアで神官が台頭し、政治が不安定になると、[[紀元前539年]]に[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシア]]の[[キュロス2世]]によって新バビロニアも滅亡した。

アケメネス朝(紀元前525年 – 紀元前332年)

[[紀元前525年]]にエジプトの{{仮リンク|プサメティコス3世|en|Psamtik III}}も、[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシア帝国]]の[[カンビュセス2世]]に{{仮リンク|ペルシウムの戦い (紀元前525年)|en|Battle of Pelusium (525 BC)|label=ペルシウムの戦い}}で征服され、[[古代オリエント]]世界は統一された([[:en:Twenty-seventh Dynasty of Egypt]])。

[[404年]]に[[ペロポネソス戦争]]が終結すると、[[402年]]に混乱を突いて独立し、ペルシアによる支配が終わった。独立期間([[:en:Twenty-eighth Dynasty of Egypt]]、[[:en:Twenty-ninth Dynasty of Egypt]]、[[エジプト第30王朝]])が続いたが、[[342年]]にペルシアの[[アルタクセルクセス3世]]が最後のファラオ・{{仮リンク|ネクタネボ2世|en|Nectanebo II}}を破り、エジプトに再び[[サトラップ]]を置いた

 

グレコ・ローマン期

アルゲアス・プトレマイオス朝(紀元前332年 – 紀元前30年

[[イッソスの戦い]]の後、[[紀元前332年]]には[[マケドニア王国]]の[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]によってエジプトは征服された([[アルゲアス朝]])。[[紀元前323年]]のアレクサンドロス大王の死後、[[ディアドコイ戦争]]を経て、[[紀元前305年]]に[[ギリシャ人|ギリシア系]]の[[プトレマイオス朝]]が成立し、[[ヘレニズム]]文化の中心のひとつとして栄えた。この時期には、6度にわたる{{仮リンク|シリア戦争 (プトレマイオス朝)|en|Syrian Wars|label=シリア戦争}}が行なわれたが、多数の[[ギリシャ人]]が入植した。[[ロゼッタ・ストーン]]には[[古代ギリシャ語]]でも[[プトレマイオス5世]]の事跡が記録されていることが知られている。

Ancient Egyptian


ローマ帝国期(紀元前30年 – 395年

プトレマイオス朝は[[紀元前30年]]に滅ぼされ、エジプトは[[ローマ帝国]]の[[属州]]となる。ローマ帝国の統治下では[[キリスト教]]が広まり、[[コプト正教会|コプト教会]]が生まれた。当初、[[アエギュプトゥス|エジプト属州]]は皇帝直轄領として、豊かな[[穀物]]生産でその繁栄を支えた。

皇帝[[ネロ]]([[54年]]-[[68年]])の治世に[[:en:Tax resistance]]の[[ユダヤ戦争]]で[[エルサレム攻囲戦 (70年)|エルサレム攻囲戦]]の結果、[[ユダヤ人]]が[[アレクサンドリア]]に移住した。

皇帝[[ハドリアヌス]]([[117年]]-[[138年]])の治世にエジプト属州で{{仮リンク|キトス戦争|en|Kitos War}}、[[ユダヤ属州]]で再び[[バル・コクバの乱]]が起こった結果、ユダヤ的なものの根絶を目指し、[[ペリシテ人]]の名前からとって属州「シリア・パレスティナ」と名付けた。

皇帝[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]](161年-180年)の治世でも、増税への[[:en:Tax resistance]]を目的にした{{仮リンク|ブコリック戦争|en|Bucolic War}}と呼ばれる反乱が起こり、エジプト属州の地域経済に大打撃を与えた。これ以後も増税と反乱を繰り返し、帝国は財政破綻へ向かっていった。

[[4世紀]]には、[[ギリシア文字]]を基にした[[コプト文字]]が使われ出し、[[ヒエログリフ|神聖文字]]や[[デモティック|民衆文字]]は使われなくなった。

ビザンチン帝国期(380年 – 642年)

ローマ帝国の分割後は[[東ローマ帝国]]に属した。

[[618年]]–[[621年]])で[[サーサーン朝|ササン朝ペルシャ]]敗北し、[[629年]]までその支配下にあった。同[[629年]]、[[エルサレム]]などでキリスト教に改宗しないユダヤ人に対する虐殺事件、が起こり、ユダヤ人がエジプトに脱出した

エジプトのイスラム化

エジプトのイスラム化

イスラム帝国期(639年 – 1250年)

[[639年]]から始まった[[イスラム帝国|イスラム軍]]([[正統カリフ]])の[[将軍]][[アムル・イブン・アル=アース]]による侵攻 は、で征服され終結した。

その後、[[ウマイヤ朝]]および[[アッバース朝]]の一部となった。アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト[[総督]]から自立した[[トゥールーン朝]]・[[イフシード朝]]の短い支配を経て、[[969年]]に現在の[[チュニジア]]で興った[[ファーティマ朝]]によって征服された。

[[1154年]]、([[1154年]]-[[1169年]])で、[[十字軍国家]]の[[エルサレム王国]]が[[ファーティマ朝]]エジプトへ侵攻した。

これ以来、[[アイユーブ朝]]、[[マムルーク朝]]とエジプトを本拠地として[[歴史的シリア|シリア地方]]まで版図に組み入れた[[イスラム王朝]]が500年以上に渡って続く。

マムルーク朝(1250年 – 1517年)

[[第7回十字軍]]([[1248年]]-[[1254年]])では、[[カペー朝]][[フランス王国]]の[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]の軍が[[1249年]]にエジプトに侵攻した。この時、[[アイユーブ朝]]のスルタン・[[サーリフ]]が急死すると、[[シャジャル・アッ=ドゥッル]]夫人率いる[[マムルーク]]軍団が十字軍を撃退し、その後のクーデターで{{仮リンク|バフリーヤ・マムルーク朝|en|Bahri dynasty}}([[1250年]]-[[1382年]])の女性スルタンに即位した。

Ancient Egyptian


[[モンゴル帝国]]は[[オゴデイ]]後継者問題で混乱した後、[[フレグ]]が[[フレグの西征]]を開始した。[[1258年]]に[[アッバース朝]]を滅ぼしたが、[[1260年]]に再び大ハーン・[[モンケ]]の朴報が届き、[[フレグ]]はモンゴルへ帰還した。[[キト・ブカ]]は1万の留守部隊を預けられてシリアに駐屯していたが、[[アイン・ジャールートの戦い]]で[[ムザッファル・クトゥズ]]が大軍を率いてシリア奪還した。

マムルーク朝のもとで[[中央アジア]]や[[カフカス]]などアラブ世界の外からやってきた[[マムルーク]](奴隷軍人)による支配体制が確立し、250年間続いた。

[[1324年]]頃、[[マリ帝国]]の[[マンサ・ムーサ]]王が{{仮リンク|皇帝マンサ・ムーサのメッカ巡礼|en|Musa I of Mali#Islam and pilgrimage to Mecca|label=メッカ巡礼}}の途上で[[ナースィル・ムハンマド]]の元に立ち寄り、大量の金の贈り物をしたことでカイロの金の相場が下落したと伝えられている。そのためか、晩年のムハンマドは奢侈に走って財政を傾かせ、マムルークの力が強大になった。

[[バルクーク]]がクーデターによって[[サーリフ・ハーッジー]]を廃し、{{仮リンク|ブルジー・マムルーク朝|en|Burji dynasty}}([[1382年]]-[[1517年]])を開いた。

オスマン帝国期(1517 – 1805)

[[1517年]]に[[マルジュ・ダービクの戦い]]で、[[オスマン帝国]]の[[セリム1世]]はマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたが、マムルーク支配は温存された。

[[1798年]]、[[フランス]]の[[ナポレオン・ボナパルト]]が[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]を行なった。この時、[[紀元前196年]]に書かれた[[ロゼッタ・ストーン]]が港湾都市[[ロゼッタ (エジプト)|ロゼッタ]]で発見され、[[1801年]]にイギリス軍の手に渡った。石碑に[[ヒエログリフ|神聖文字]]と[[デモティック|民衆文字]]で書かれた[[エジプト語|古代エジプト語]]は、1822年、[[ジャン=フランソワ・シャンポリオン]]によって対応する[[古代ギリシア語]]から解読され、古代エジプトの文学や文化を理解する道が開けた。

近代エジプト

ムハンマド・アリーの近代化(1805年 – 1882年

[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]を契機として、エジプトは[[近代国家]]形成の時代へと突入していった。エジプト遠征にともなう混乱を収拾して権力を掌握した軍人[[ムハンマド・アリー]](オスマン帝国が派遣した[[アルバニア人]]部隊の隊長)は、1805年にエジプト総督の地位をオスマン帝国に認めさせると、豪族化していた各地のマムルークを打倒して集権化を進めた。その上で、[[富国強兵]]、[[殖産興業]]を通じたエジプトの近代化を目指した。また、1822年に導入された[[徴兵制]]では、宗教の別なく均質な国民として徴兵を行った。こうした政策は、エジプトにおける[[国民]]創出、[[国民国家]]形成の試みとも解釈できる。また、近代化の財源には、列強からの借款でなくナイル川での商品作物栽培で得られた利益をあてることとして、列強の経済的従属に陥らないよう気を配った。

1831年からの[[エジプト・トルコ戦争]]で、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功し、アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた([[ムハンマド・アリー朝]])。

スエズ運河とエジプトの従属

しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、またムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。[[1869年]]にエジプトは[[フランス]]とともに[[スエズ運河]]を開通させるが、その財政負担はエジプトの経済的自立に決定的な打撃を与え、[[イギリス]]の進出を招いた。[[1881年]]に[[アフメド・ウラービー]]が中心となって起きた反英運動・[[ウラービー革命]]もイギリスによって鎮圧され、エジプトは事実上の[[保護国]]となる(正式には1914年)。

現代(1882年 – 現在)

エジプトの民族運動と独立

[[1914年]]には、[[第一次世界大戦]]によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。その結果、大戦後の[[1922年]][[2月28日]]に[[エジプト王国]]が成立し、翌年イギリスはその[[独立]]を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。[[1940年]]、[[イタリアのエジプト侵攻]]。

第二次世界大戦後のエジプト

エジプト王国は[[立憲君主制]]をひいて議会を設置し、緩やかな近代化を目指すが、[[第二次世界大戦]]前後から[[パレスチナ問題]]の深刻化や、[[1948年]]から[[1949年]]の[[パレスチナ戦争]]([[第一次中東戦争]])で[[イスラエル]]に敗北、経済状況の悪化、[[ムスリム同胞団]]など政治のイスラム化([[イスラム主義]])を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。この状況を受けて[[1952年]]、[[自由将校団]]が[[クーデター]]を起こしてムハンマド・アリー朝を打倒({{仮リンク|エジプト革命 (1952年)|en|Egyptian Revolution of 1952|label=エジプト革命}})、[[1953年]]に共和制へと移行し、”’エジプト共和国”’が成立した。

[[1956年]]、第2代大統領に就任した[[ガマール・アブドゥン=ナーセル]](ナセル)のもとでエジプトは[[冷戦]]下での中立外交と[[汎アラブ主義]]([[アラブ民族主義]])を柱とする独自の政策を進め、[[第三世界]]・[[アラブ諸国]]の雄として台頭する。同年にエジプトは[[スエズ運河国有化宣言|スエズ運河国有化]]({{lang-en-short|Nationalisation of the Suez Canal}})を断行し、これによって勃発した[[第二次中東戦争]](スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。[[1958年]]には[[シリア]]と連合して[[アラブ連合共和国]]を成立させた([[1961年]]に解消)。[[1962年]]から始まった[[北イエメン内戦]]では、[[ソビエト連邦]]と共に共和派を支援し、王党派を支援する[[サウジアラビア]]や[[ヨルダン]]と対立した。

しかし、[[1967年]]の[[第三次中東戦争]](6日戦争)は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。エジプトは1971年まで「アラブ連合共和国」と称し続けたが、その後”’エジプト・アラブ共和国”’と改称した。

[[1970年]]に急死したナーセルの後任となった[[アンワル・アッ=サーダート]](サダト)は、[[社会主義]]的経済政策の転換、[[イスラエル]]との融和など、ナーセル体制の切り替えを進めた。しかし政治的自由化によってイスラム主義がかえって勢力を伸張させて体制に対する抵抗が激化し、サーダート自身も[[1981年]]に[[イスラム過激派]]の[[ジハード団]]によって[[暗殺]]された。

かわって副大統領から大統領に昇格した[[ホスニー・ムバーラク]]は、対米協調[[外交]]を進める一方、イスラム主義運動を厳しく[[弾圧]]して国内外の安定化をはかるなど、[[開発独裁]]的な政権を長きにわたり維持したが、しかし同じく長期政権を維持してきた[[チュニジア]]の[[ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー|ベン=アリー]]大統領は[[ジャスミン革命]]で政権を失い、それに呼応した[[エジプト革命 (2011年)|エジプト革命]]は30年続いたムバーラク政権を崩壊させた([[アラブの春]])。軍による暫定的な統治の後に[[ムスリム同胞団]]の[[ムハンマド・ムルシー]]が自由選挙を経て2012年7月に大統領に就任した。同国初の文民大統領であったが、次第に強権的な姿勢が目立つようになったほか、イスラム化を推し進めたことが反発を呼び、各地で反政府デモが起こった

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